Profile

早乙女貴紀

経歴

  • 國學院栃木高等学校
  • 神奈川柔道整復専門学校

資格取得

  • 国家資格 柔道整復師
  • EK療法士 認定
  • スタビライゼーションアドバイザー 認定
  • クラシックオステオパシー・ベーシック修了
  • ニューライフリメディ療法 ベーシック・アドバンス修了
  • ニューライフリメディ療法  鍼灸分科ベーシック修了
  • MN SCI TECH分子栄養学アカデミー インストラクター修了
  • Re-rise Professional School 美容整体 インストラクター修了
  • アプライド・フィジオロジー APクエスト 1〜4 修了
  • Atlas College of Osteopathy 筋エネルギーテクニック 修了
  • Atlas College of Osteopathy SCS 修了
  • トリガーポイントセラピスト・ベーシックコース

性格

のめり込むと徹底的にハマり込む、父親譲りの性格

父親の職業はサラリーマンだったのですが、定年退職をし父親は蕎麦打ちが趣味でハマりにマハって地域のコミニティー主催の蕎麦打ち講座の講師を行うくらいに極めたり、蕎麦屋でもないのに今は貴重な屋久杉を使った(包丁としては高額な)蕎麦包丁などを家族に内緒でオーダーしてしまうくらいの父親です。

所属

  • 一般社団法人 日本糖質制限医療推進協会会員
  • ニューライフレメディ療法研究会会員
  • ニューライフレメディ療法認定院
  • キネシオロジー研究会会員
  • NPO法人 日本ホリスティック医学協会会員

トレーナー実績

  • 神奈川県国体競泳代表選手団帯同トレーナー 平成21年・平成22年
  • プロボディーボーダーフィジカルトレーナー 令和1年〜
    野村裕子選手

メディア掲載

NHK総合「ひるまえほっと」

朝日小学生新聞社

読売新聞社

出身は栃木県

昭和51年6月、栃木県上都賀郡西方村の早乙女家の長男として生まれる。
兄妹は妹が1人の2人兄妹です。
父と母は共働きで忙しく、いつも父方の祖父と祖母に面倒をみてもらっていました。
私の生まれた場所は自然が多く、家の横の川には6月になるとホタルが舞い網戸に付いて黄色い光をよく見たものです。現在も以前ほどではないですが、今だにホタルが生息しています。

小学生で何度も牛の出産に立ち会う経験

祖父の家は酪農家を営んでおり、小学校から帰ってくると牛の世話をするのが日課になっていました。子牛にミルクを与えたり、糞の処理をしたり、搾乳機を牛の乳に付けたりと、飼育するという社会経験を小学生の時に日常に経験させてもらえたことは人生の中で大きな糧になっています。その中で牛の世話をするにあたり鮮明に残る出来事は、牛の出産に幾度も立ち合った事でした。親牛が涙を流しながら陣痛に耐え、胎盤と前足から出てくる子牛をロープでくくりつけ親牛が息むタイミングで引っ張り上げるという作業を、小学生ながら行いました。子牛が産まれた後に、親牛は胎盤を開け子牛の顔や身体を嬉しそうに舐めているのを今でも鮮明に覚えています。この頃から生死についてボンヤリと気に留めるようになってきたのだと思います。

小・中学性の頃にハマった漫画があります「孔雀王」「夜叉鴉」など仏教や神道などマントラや印などに興味を持ち日本書紀の漫画や「ブッダ」なども読みハマっていました。

野球との出会い

私の住む地域は小学校4年生から野球クラブに入ることが決まりになっていました。僕が所属する地域は村内で1、2を争うチームでした。また、地方大会でも上位に残るチームでもあり練習も厳しかったため、初めの頃はよくいるサボり気味の野球部員でした。

しかしながら高学年になりレギュラーになり、チーム内では4番を任される打者になりました。その頃から野球が楽しくなり、6年生の頃には僕たちのチームは県大会上位入賞するくらいにまでなりました。

楽しすぎた中学野球時代

この流れから中学も野球部に入部。すでに身体が大きかったために、先輩からイジメにあうことも度々ありました。しかし、イジメる先輩を「レギュラーから奪ってやる」と奮起し、中学1年生の後半にはその先輩からレギュラーの座を奪い獲得。最後の大会までレギュラーのポジションを誰にも譲ることなく、主軸として頑張りました。打撃の方は常にクリーンナップを維持しホームランを数多く打っていました。公式戦で予告ホームランを打ったのは一番の思い出です。全国大会には出場できませんでしたが、チームの成績は県大会ベスト4まで勝ち上がることができました。さらに野球が面白くなり進学も野球が強い所に行って自分の実力を試してみたいと思い進学しました。

高校野球時代の試練

高校に進学し国学院栃木高校の野球部に入りました。野球部には栃木県・茨城県・群馬県・埼玉県・東京都など5県から野球に自信がある選手達が集まり甲子園を目指し切磋琢磨しあいました。しかし甲子園出場は逃したものの、同期の友人2名がプロ野球選手となり一人は現役時代ゴールデングラブ賞やベストナイなどを受賞し、現在(2020年現在)、西武ライオンズのコーチとして活躍、もう一人はWBC(ワールドベースボールクラシック)に2回出場し2度の優勝を獲得、メジャーリーグにも挑戦したアンダースローのピッチャーがいました。その他の同期は大学に進学し野球を続け名前を残すような選手がたくさんいる中で、自分は実力が伴わず挫折を味わいました。

1年生の時は入学早々監督の期待もあり3年生のレギュラーの中に入り1軍の練習に参加しました。1軍の練習について行くのにやっとな思いで食らいついていましたが、数多い怪我や実力不足のため結果が出ない自分と監督の期待に応えられない自分に対し嫌気がさし苦しんで、何かあるごとに言い訳ばかり言うようになっていきました。気がつけば高校2年生の時は腐りきったかっこ悪い野球部員に落ちていました。そんな自分を一生懸命に正してくれる仲間がいました。諦めてふてくされている私を同期のみんなが支えてくれたお陰でやる気を取り戻し、練習に積極的に参加するようになり、最終的には3年の夏の1軍チームメンバー最終選別まで生き残りましたが1軍メンバーには及びませんでした。しかし、3年間自分を支えてくれた仲間やチームに恩返しをしたいと監督に直訴し、裏方でチームを支える役割を監督から与えて頂けました。裏方としてチームの役に立てる事、人の役に立つ事の喜びがこの時に自分の中で芽生えたのだと思います。

この時にレギュラー選手達へのマッサージで「楽になった!」という声を聞き嬉しくなった経験や私自身が怪我の治療で通っていた気功整体やリハビリテーションの理学療法士の先生の温かさから医療従事者への進路というのも考えました。

大学中退からの就職

大学受験では医療系(理学療法士)の大学を受験しましたが落ち、ほかの大学に進学はしたものの学生時代に始めたアパレルのアルバイトが楽しくなり大学を中退し、そのままアパレル業界に就職してしまいました。就職する頃には店長を任されお店の運営や仕入業務など、お客様の好きなものやお客様の好みに応じた商品を取り揃え接客販売をしていました。時にはオーナーとアメリカ・カリフォルニア州へ買い付けへ仕事で行ったりと貴重な経験もさせていただきました。その頃は店舗も増えてお店の経営の方も順調でした。

接客が好き

僕は洋服が好きでアパレル業界に就職した訳ではなく、お客さんとのコミニケーションが好きということもあり接客が楽しいと思いアパレル業界に入りました。お客さんがどこを探しても見つからなかった服を、買い付けで見つけ出し持って帰った時の喜ぶ姿を見る時。初めて大好きな女の子とのデートの時に僕の接客で選んだ服を着てデートに行き、「告白したら付き合えることになった」とそのままお店に女の子を連れて来て紹介してくれたりと、商品を売るという目的だけではなく人との繋がりが生まれる接客が大好きでした。しかし、洋服には流行があります。そのシーズンの流行を追うため常連さんのお客さんが求める商品が仕入れから外れてお店に置かなくなってしまったりということがあるんです。「流行を追わなくてはオシャレじゃない」という考えは私自身にはなかったので、心の葛藤がこういう時にはありました。

高校卒業後から始めたサーフィンが趣味で、当時から身体のメンテナンスで整体院を利用していました。その整体院の先生はまさにゴットハンドというべき先生でサーフィンで負傷した首や肩などをあっという間に治してしまい、「体に不調があったらここに来れば、好きなサーフィンが続けられる!」と感動をしたのを覚えています。

高校の時に医療従事者という職業が気になっていたというのもあり、さらに自分がしてもらって嬉しいことを、そのままお客さんに提供し喜んで頂けたら嬉しいと思いました。

アパレル業界に就職した時に父親から「30歳になるまでには一生この職業を仕事にしていい職業につけよ」と言われたことも重なり、医療従事者の柔道整復師になる決断をしました。

ターニングポイント

思い立ったら即決断。大変良くしてくれたアパレル会社の社長に相談し辞表を提出し、円満退社させていただきました。しかし、会社を退社した時には学校に入る入学金も学費もなくゼロからのスタートとなりました。1年の期間と決め派遣会社に登録し工場勤務を始めました。日勤・夜勤を繰り返し夜勤時は残業して日勤の方に仕事をバトンタッチ、さらに日勤の時には仕事を終えたその足で運輸業者で配達物の仕分けのアルバイトを深夜まで行いました。この時期には休みはなく少しでも学費を稼ぐため夜勤の時以外は昼夜と働いていました。期限の1年間を迎え学費などある程度貯まったのを機に、柔道整復師という国家資格の取得を目指し学校に入学できました。

専門学校時代

専門学校に入学し奨学金も借りながら、学校の近くの整骨院で修行しながら夜間に学校に勉強しに行く毎日を過ごしました。その修行先の整骨院は1日平均100人以上来院する繁盛している接骨院でした。私は助手として朝から学校が始まる18時まで修行先で研修し、夜は学校。その後は復習と3年間はみっちり勉強しました。その甲斐あって学校の成績は学年ではトップクラスに入り、年次の全国国家試験模擬テストは全国で7位という成績をとりました。(ちなみに1位は妻でした)

卒業後は「学校で講師として残らないか」と声を掛けて頂いたのですが、臨床に出て患者さんの喜ぶ姿をみたい、患者さんの健康のお手伝いをし一緒に喜びを分かち合いたいとの当初の思いを貫きたいと、お話をお断りしました。

修行時代から開業に至るまで

柔道整復師免許を取得し修行時代からお世話になった整骨院で合計3年半勤務し、さらに様々な接骨院や整形外科をパートで働き技術や経験を磨きたいと掛け持ち勤務していました。午前中はA接骨院、午後はB接骨院と周り、勤務先の接骨院では担当施術者の指名制というものがあり、ありがたいことに常に予約が埋まっていました。

さらに週に1度は整形外科に勤務し、リハビリ担当としてオペ後のリハビリなど経験させて頂きました。より良いものを患者さんに提供するには数多く経験しなければと思いたくさんの勤務先で修行させて頂きました。

次の修行先を探しに母校にお邪魔して、就職相談室へ求人を探しに行きました。ちょうどタイミングよく母校の柔道整復科学科長にお会いして次の研修先の求人を探しにきたと伝えたところ、柔道整復科学科長が私に「私の出資で接骨院を開業しないか?学生の臨床の面倒を見てくれ」と頼まれました。学生時代とてもお世話になった先生のお言葉とそろそろ自分自身も開業も視野に考えていたこともあり開業に至りました。

これからの自分

開業から現在11年目(2020年)になります。開業当初は「患者さんにより良い医療サービスを提供したい、また地域の患者さんの皆さんのために整体を学びに」と思いさまざまな整体や勉強会に足を運び学んできました。しかし、現在は違います。

私の現在、提供する医療サービスとは
「私の家族の健康を守るための医療技術を死ぬ気で学ぶ。なぜなら私が後悔しないために」

という基準を持って、学んでいる医療技術を医療サービスとして提供させていただいています。これらの医療サービスは必要な方は必ず喜んでくれます。「探し求めていました」とも言われることもあります。物理学から標準医学、インド医学やチベット医学、東洋医学や分子栄養医学、波動医学などさまざまな医学や伝統医療などを学び、身体まるごとをみる総合医療(ホリスティック医学)をテーマにこれからも、「健康」に携わる「この道」を進んでいきたいと思います。

 

院長 早乙女 貴紀

© 2021 コクア接骨院